通称「青天白日満地紅旗」または「青天白日旗」と呼ばれています。東京に亡命していた孫文が考案したデザインです。
左上のカントン部には青地に太陽がデザインされていて、太陽の12条の光は12刻を表し永遠を象徴しています。また、国民が自ら進んで物事に取り組む精神をも表しています。
旗を構成している青・赤・白の色は、孫文の三民主義(民権主義、民族主義、民生主義)に由来しています。青は民権主義と自由、赤は民族主義と革命のために流された人々の血と友愛、白は民生主義と平等を象徴しています。
現在の国旗は1928年に台湾(中華民国)が全国を統一したときに正式採用になりました。
旗の変遷
青天白日旗
青天白日旗は中国国民党の前身である中国革命同盟会の旗として、1893年にデザインされたものです。
1906年、孫文はこの青天白日旗を中華民国の国旗として併用しようとしました。しかし、日本の国旗に似ていることや、色彩が質素で単調なことを指摘されました。
そこで孫文は赤地を加えて現在の青天白日満地紅旗を完成させました。
後にこの青天白日旗は、1919年に成立した中国国民党の党旗に制定されます。
五色旗
1912年、中華民国の建国当初に国旗として使用されていました。
これはかつて清朝の海軍で使用されていた旗です。
それぞれの色には、赤=漢族、黄=満州族、青=モンゴル族、白=ウイグル族、黒=チベット族の5つの民族の共生という意味や、中国古来から伝わる五行思想を反映したとも言われています。
1912年、中華民国の建国時に国家元首であった孫文は、青天白日満地紅旗を国旗として採用しようとしました。
しかし、議会との協議の結果、五色旗を国旗とし、青天白日満地紅旗を中華民国の海軍旗として使用することとなりました。
その後、孫文は北京政府から追放され、袁世凱が権力を掌握しました。人々は袁世凱の施政に反発し、五色旗に対する反発も高まっていきました。
一方、追放された孫文をはじめとする革命勢力は、1919年に広東で中国国民党を結成しました。
さらに勢力を拡大した1925年には、広州で国民政府を樹立し、青天白日満地紅旗を国旗として定めたため、中華民国には2種類の国旗が存在する事態になりました。
この2つの国旗がある状態は、蒋介石の南京国民政府が全国を統一して、1928年に正式な国旗を五色旗から青天白日満地紅旗へと変更したことで解消しました。その際に、青天白日の紋章も正式な国章として制定されました。
以後、1945年の中華民国の台湾進駐の際にも、この旗は中華民国の国旗として現在に至るまで変更はありません。
1954年10月23日には、国章と国旗法(中華民國國徽國旗法)が立法院によって公布され、旗の大きさ、大きさ、比率、生産方法、管理法が指定されました。
チャイニーズタイペイ
台湾は中国の一部分であるという「一つの中国」を主張する中華人民共和国との兼ね合いから、国際的には「台湾」も「中華民国」も名乗れないという事情があります。
よって青天白日満地紅旗は使用できず、オリンピックや国際的なスポーツ大会などでは、このチャイニーズタイペイ旗を使用しています。
国花である梅がデザインされていて、通称「梅花旗」とも呼ばれています。
台湾旗
「中華民国」ではなく「台湾」として分離・独立を目標としている、台湾独立運動の支持者の間で使われている旗です。
カナダの国旗を参考にデザインされました。中央には台湾の島が配置されています。台湾の独立を掲げる民主進歩党のイメージカラーである緑が使われています。
2001年に世界台湾人大会で発表され、独立支持者の間で広く普及するようになり、現在では台独(台湾独立)の象徴となっています。
似ている国旗
サモアとビルマ(ミャンマー)も、台湾と同じく赤地に青のカントンの国旗です。
ナミビアの国旗の図案化された太陽は、台湾と同じ12条の光を放っています。
サモアの国旗 | ビルマ(ミャンマー)の国旗 | ナミビアの国旗 |
台湾の旗のパーツごとの説明
「青天白日満地紅旗」または「青天白日旗」と呼ばれる
12本の光芒を放つ白日
十二ヶ月、十二刻、十二支などを表す
民生主義、友愛
民権主義、正義
民族主義、自由と独立
台湾の基礎データ
面 積 | 36,000km² |
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首 都 | 台北 |
言 語 | 北京語、福建語、客家語 |
主要産業 | 電気・電子、鉄鋼金属、繊維、精密機械 |
通 貨 | 新台湾ドル |
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